【仏壇の正しい祀り方】
     仏壇は実家にあればそれでいい、と考える人が案外多いが、いくら核家族化     したからとか、団地住まいで狭いからといっても、それぞれの家庭には、やは     りひとつずつの仏壇が必要である。      仏壇にもいろいろ有るが、白木でなければ黒檀でも、黒塗りでもかまわない。     部屋の大きさや一家の経済事情に応じて、ほどほどの大きさ、立派さのものを     選ぶことである。      身分不相応な豪華なものや、あまりにも貧弱で粗末なものは、仏も居心地が     よくないだろう。      中央には宗旨によって、ご本尊を安置する。浄土宗なら阿弥陀如来、真言宗     なら大日如来、日蓮宗なら文字曼陀羅・・・・。      よく真ん中に先祖の位牌を置いている家庭を見受けるが、これは間違い。      先祖は、生きている者が感謝と尊敬をこめてお守りするものには違いないが、     しかし、私たち人間には先祖をお守りするような力はない。      だから、ご本尊の如来の光をいただいて、そのお力で守っていただくのだ。      これが回向供養というものである。      そして、向かって左側に、ご先祖の位牌を安置するのが正しい姿である。      水子の位牌はさらにその左側、いちばん端に安置する。      ご本尊の右側には、観音像などを安置する。      下段には、真ん中に線香、右にローソク、左に花の三具足を置くのである。      水子の位牌について、付け加えると、その表には<○○家水子之霊位>と金      文字で書くか、彫るか、どちらでもよろしい。      裏には母親の名前を書き<昭和○年○月、之造>というふうに刻む。      これは仏具店でやってくれるもので、こうして出来あがった位牌を、お寺(      菩提寺でなくとも、宗旨に合った寺ならかまわない)に持って行く。水子霊      を入魂してもらうのである。       これが肝甚なことで、ご本尊はじめ全ての位牌も仏像も、入魂してもらわ      なければ何の役にも立たない。大切な心得なのだが、知らない人が多いので      付け加えた。
【供養とは”食事”を捧げることである】
     さて、仏壇もちゃんと形どおりに祀った。水子の位牌も安置した。命日には      坊さんを呼んで法事もしている。盆や彼岸の日には墓参りもしている。       これでもう、供養は万全だ、行き届いたものだ、などと安心していいもの      ではない。それでもなお不十分なのである。       それでは、いったい供養って何なのか、そんな面倒なものなのか、と考え      られるかも知れないが、実際のところ、仇おろそかに考えてはならないもの、      生きている限り、常住坐臥に念頭に置かねばならぬ大切な勤めなのだ。       供養とは、字のとおり供え、養うことである。       私たちが毎日三度三度の食事をするように、霊もまた、毎日”食事”が必      要なのだ。もちろん、食事の質は違っているが、仏壇に線香をあげ、灯りを      ともし、カネをたたいて手を合わせて、<どうぞ安らかに成仏してください>      と心から願うこと、その念の心が霊にとっては毎日の”食事”である。       この”食事”を得ることで、霊はそのエネルギーを貯え、自らを高めるべ      く、霊界において修行が出来るのである。       それを、命日に限って、盆や彼岸に限って法要を営むだけで、あとは<ま      た来年>などと納まっているのは、豪華なフランス料理を年に一、二度腹一      杯食べさせてはくれるが、あとは、何も食べずに我慢しろ、というのと同じ      ことである。       たとえ一汁一菜でも、お粥だけでもいい、毎日ひもじくないように、”食      事”を捧げること。これが本当の供養のあり方である。       ”盂蘭盆”という年に一度のセレモニーは誰でも営むが、これはレストラ      ンのフルコースと同じこと。       これに対して”常盆”という毎日の”食事”こそ、供養本来の理想的な形      なのである。       私たちは、今晩は何を食べようか、明日のお惣菜は何にしようかとか常に      食事のことを考えている。ところが、亡くなった者、先祖の霊の”食事”の      ことまでは気を回さない。       これは、霊というものを生者と区別して考えているからだ。何度も述べた      ように、生者であろうと死者であろうと、霊の存在には変わりはないのだ。       死を一つの区切りと思ってはならない。そう考えるから根本的な誤りを犯      してしまうのだ。       供養の心とは、自らを養うごとく、死者を養うこと、この一語に尽きるの      である。
【先祖霊に願いごとは禁物】
     ”人が死ねば仏になる”と言われる。この意味は、霊魂が無く対の束縛から     「ホトかれる」、つまり解放されるということであって、死ねばすんなり成仏     して、仏になるということではない。どんな人でも”初七日”のうちは念(情     念)、苦、寒、怨(怨念)などを引きずって霊が悩み苦しむものであり、”二     十一日”、”四十九日”は、ここまで経って、自らの死を確かめ、肉体への決     別を告げる、とう順序をたどるものである。      ところが、霊障を起こすような霊の多くは、肉体を失ったことさえ知らない     場合がある。      例えば、いきなり交通事故にあって昇天したとか、墜落事故で亡くなったと     かいう場合である。また苦しみもがきつつ死んだような場合も、死んだことに     気付かないで、いつまでも苦しんでいることがある。      こうした霊に対しては、追善供養を重ねることによって、その死を気付かせ     る必要がある。そうすれば、その霊もだんだん安らいでくるものなのだ。      回向供養という言葉もあるが、これは念仏や題目を唱えることによって、先     祖の霊も迷っている霊も、あたかもヒマワリが太陽の光の方に向きをかえるよ     うに、如来の慈悲の光の方に向きをかえる、という意味である。      迷っている霊はもちろん、安らかに成仏しつつある霊も、如来の慈悲によっ     て救われ、成仏の高みへと登ってゆくことが出来る。      ところが、こうした供養をしているつもりが、とんでもない間違いを人々は     犯すことがある。      仏壇の前に座って、長々と愚痴をこぼしてみたり、なんとか子供の病気を治     してやってくださいと頼んでみたり、なかには「どうぞ宝くじを当ててくださ     い」などと願いごとを並べたりする。      これこそ、安心立命、煩悩から解放されて成仏しようとしている霊たちを、     再びこの世の悪魔の世界へ引っ張り込もうとする、人の道にはずれた行為に他     ならないのだ。      間違っても、先祖の霊たちに頼みごと、願いごとはもちろん、愚痴や不満を     言いたててはならない。      ひたすら「どうぞ安心して成仏してください」と、この世という後を振り返     ることのないように、霊を励ますこと。これが供養の要諦である。
【供養をすると霊はどうなるか(実例)】
     以前ある信者から、その母の三十三回忌供養を頼まれたことがあった。      その命日に、戒名を読みあげ、同時に一家の先祖の供養もさせていただこう     と、読経しながら、先祖代々の霊に呼びかけたのだ。すると、その三十三回忌     に当たる女性らしい人が、ふわっと、私の前に現れた。そればかりではない。     女性の横にもう一人の中年の男性が現れた。      おやおや・・・・・といった気分で、読経を続ける。     二人は並んで私に向かい、静かにお経を聞いている。その後方には、たくさん     の霊たちまでいつの間にか集まって来て、ざわめきながらこっちを向いている。     目の前の女性の方は、いたって神妙に、合掌し、頭をたれて、法要を受けてい     る。ところが男性の方は、ほろ酔い気分といった風情で、にこにこ微笑みなが     ら、まるで鼻唄でも唄っているようなご気嫌なのだ。      頭は角刈り、身体にドンブリのような胸掛けをつけ、顔も赤らんでつやつや     光ってみえる。      やがて法要が終わった。二体の霊はどこへともなく消えた。      私は信者家族たちに向き直って、お母さんと一緒に、これこれの人相、着衣     、表情をしていた方が出て来られて、にこにこ笑っておられた、と話をすると、     家族たちは一勢にどよめいた。      なんと、この男性は三十三回忌法要を受けた母親よりも、二十数年も早く亡     くなった父親である、とのことである。たいへんお酒の好きな大工だったそう     だ。      私はうなづいてこう言った。      「ご家族の念が霊界に届いたのですよ。そのために、ご先祖を代表した形で、     ご両親が挨拶に出てこられたのです」      色も形もない、あるのはただ思念だけという霊体は、霊界の中にあっても常     に止まることなく、活動もし、楽しみもし、また苦しみ、悩みもしながら漂っ     ている。それがある瞬間、一つの念波をキャッチし、その念波の発生源へ引き     寄せられてゆく。      この念波は大宇宙の根元である「如来の念」である場合もあれば、生前の肉     親や知人=縁者たちからくる「供養の念波」である場合もある。      霊そのものの悟りの度合、あるいは霊格といったものによっても、この念波     をキャッチできる程度は異なってくる。
【守護霊の「霊格」を高めよ】
     さまざまの煩悩を払い落とすことが出来たり、煩悩を完全制御できるほどに、     悟りを開くことに成功した霊は、今度はこの悟りのエネルギーを善用して、肉     親や縁者のために働こうとする。      これもまた如来が定められた衆生救済度のシステムの一つであり、如来の慈     悲心がこれを支えている。      生きている私たちは、そのことを直接肌身に感じて思う事は希ではあるが、     日々をなんとか無事に過ごせるのも、こうした守護霊の働きのおかげなのであ     る。      ”守護霊を持て”と説く人があるが、私たちは全て、生まれながらにして、     守護霊を持ち、それに守られている。      ただ、この守護霊にも私たちとの因縁のありようや、その悟りの浅深によっ     て、発揮出来るエネルギーにも強弱がある。      守護霊の力が弱いと、これまで述べてきたような霊障に悩まされたり、霊障     とまで明白な形で現れないまでも、いくら努力しても「どうしてこう不運なの     だろう」と嘆くような人生が続いたりする。      また、一つの事故を取りあげても、日航ジャンボ機の墜落で多数の人が亡く     なったが、そんな中でも奇跡的に生命拾いをする人もあるように、大難を小難     に切り抜けさせてくれるよう守護霊は守ってくれているのだ。      こうした特異なことだけではない。      私たちの日常生活、たとえば夫婦の仲、子供の成長、健康の保持、あるいは     隣人との付き合い等々、また社会人としての出世や地位、名誉、仕事の捌きか     ら、上司の覚えや同僚との関係等々に至るまで、守護霊の働きを得ているのだ。      ただ、何をやってもうまくいかない、とボヤく人もあれば、それほど身を切     るような努力をしなくても、何となくスムーズにことが運ぶ、という人まで、     守護霊のパワーの強弱によって、実人生に差がある事は歪めない。      こうとた守護霊の中で、一番強い力を持っているのは、先祖の霊である。こ     れは、三代前、五代前、七代前に当たる先祖の中のどなたかの霊が、多くの先     祖の中から選ばれて守護霊となっている場合が多い。      この守護霊のほかに、私たちの環境や職業に応じて、かつてはその同じ環境     や職業にあった有能な霊が、時に応じて、現世の私たちを守ってくれている。     これを私は指導霊と呼んでいるが、この守護霊、指導霊を含めて、一般には背     後霊と名付けている。      背後霊、とくに先祖の守護霊が十分子孫を守れるほどのパワーが発揮出来な     いというケースは、その子孫が、先祖の霊を粗末にしていたり、無視したりし     ている場合がほとんどである。      先祖の供養が必要だというのは、こうした現世利益ばかりでなく、私たちの     子孫の将来、一族の未来の繁栄という点からも、忘れてはならないことである。      霊のパワーは、さきに言ったように悟りの浅深ばかりでなく、現世からの供     養などによっても差が起こる。      なにしろ、霊というものは、死霊であろうと生霊であろうと、常にその霊界     での位置は変化するものである。      菩薩や仏の世界にまで達することは至難としても、霊自身の修行や、供養を     受けることで、その霊格は上がるものだ。生きている人間が行を積み、供養の     施しをすることで、その人の霊格もまた上昇する。その人の霊格が上がるとい     うことは、守護霊の霊格も上がるということである。霊格の上昇につれて、そ     のパワーも強化される。      守護霊、背後霊とは、このように常に私たちを災難から保護し、危難から救     い、怨霊やさまざまの因縁が引き起こす霊障を、なんとか防ごうと働いてくれ     る。      ところが、守護霊の中でも、もっともパワーを発揮できるはずの先祖霊をな     いがしろにしていたり、多くの先祖霊そのものが深い因縁によって迷い続けて     いるような場合には、もちろん守護霊自身の力も働かないし、先祖霊の迷いが     霊障を起こす結果を招くことになる。     以上、参考にして下さい。