【霊はどこに居るのか】 霊の居場所、つまり霊の世界というと、人々はすぐ、死後の世界と結びつけ て考える。恵心僧都源信(えしんそうずげんしん)の「往生要集」に描かれた 地獄や極楽を思い浮かべて、死者の霊は生前の行いに応じて、冥土の旅を続け ”三途の川”を渡るのだ、と一般に思っている。 しかし、本当の霊とは肉体から離れ(死んで)はじめて存在するものではな い。 霊はエネルギーであり、パワーを持つものである以上、それは宇宙の全てに わたって存在する。肉体(生命)の有るところにも、肉体の無いところにも、 それは充満している。 つまり、この広大無辺な宇宙全体が霊界ということである。 いいかえれば霊はどこにでも宿っているものであって、宿っているものが死 滅すれば、また次なる宿りに移って行く。だから霊は永遠に消滅することがな い。霊魂は不滅であるとはこういうことで、お釈迦様が仏と化し、キリストが 復活されたのも、その霊の不滅ということを証明している。 霊が次から次へと宿りを替えることを”輪廻”と呼び、その宿りの姿が変わ ることを”転生”という。 人の生命というものは、 「生→幼→青→壮→老→衰→死・・・・・生」 という形で繰り返されるが、初めの生は先祖の生であり、最後の生は現在の その子孫の生であり、先祖の生に宿った霊が、子孫の生に姿を変えて宿る。先 祖の生まれ変わりであるとか、前生とか、過去生とかよく言われるのは、まさ にこのこと。これが仏教の基本理念である。 「輪廻転生」 ということの意味である。 このように、霊はどこにでも居るものであるから、単に関係を離れた死の世 界だけにとどまらず、私たちが生きている現世にも存在する。 「往生要集」に記された地獄とか極楽とか称されるものは、本当はそうした 場所、つまり閻魔大王が居て悪人を裁く所とか、阿弥陀仏の居られる浄土とか が、場所・所在地として存在するのではなく、それは地獄のような、極楽のよ うな”状態”を意味しているのである。 つまり霊の状態、ありようなのである。 仏典には”十界”が示されている。 十界とは 地獄、餓鬼、畜生、修羅、人界、天界、声聞、縁覚、菩薩、仏界 のこと。このうち地獄、餓鬼、畜生が最も下級の霊界、これに修羅、人界、天 界を加えたものが六道である。”六道輪廻”という言葉は、霊がこの六つの状 態を行ったり来たりしている事を示している。 声聞から仏界は、上級の霊界で、この状態にある霊は”仏”の称号がつけら れる。 しかも、上級、下級といっても、人間社会のようにランクづけされているの ではなく、たとえ地獄界にあっても、そのなかにはまた地獄、餓鬼・・・仏界 の十界がある。他の界にそれぞれ地獄以下の十界があるのだ。 この十界が、実は本当の意味での霊の居場所=霊の状態というものに他なら ない。 十界それぞれの詳しい説明は省くが、”地獄のような苦しみ”とか金や利権 の盲者になっているような状態が地獄界であり、飽くことのない欲望にとらわ れた餓鬼界、あるいは止まることのない政争やテロの巷の修羅界、ケダモノじ みた行為が横行する畜生界、そして理性と教養、温かさや、やさしさを持ち、 そうありたいと願う人界と天界。 そうした六道を脱して、仏の境涯へ至るという状態が声聞以上の上級霊の状 態である。 言うま゛でもなく、原爆実験や原子炉爆発が続き、アフリカでは飢え死にす る大勢の子供たちがあるというのに、飽食して糖尿病を患う者がいっぱいいる。 誘拐やテロに、ポルノや売春、人工中絶の横行、親子心中、家庭内暴力、ある いは詐欺・・・・こうした現実こそ六道の世界なのだ。 霊の状態は、こうした現実の世界の心の状態にも左右される。 人間が生きている時も、死ぬ時も、その霊の状態(心・念)が、どの世界に あるか、ということである。 六道を脱することが出来ない迷いの状態にある霊、特に地獄、餓鬼、畜生の 三悪道に陥っているような状態にある霊は、常にそうした状態=これは苦しみ の状態でもある=から救われたいとパワーを発する。そのパワーに冒された者 (感応道交)に現れるのが霊障なのである。